「心が軽くなる考え方」
「ポジティブに生きるための思考法」
といったキャッチコピーは、書籍などで良く目にしますよね。
ぼくもこういったコンセプトの本はちょくちょく読んでおり、特に1年ほど前のメンタルがボロボロだった時期には、救いを求めるように頻繁に読み漁っていました。
ただこうした中で、だんだんと分かってきたのが、
「考え方や思考法を学んだところで、自分の好きなときに思いどおりに使えるわけではないのだ」
ということです。
今日はこのあたりの感覚について、思っていることをまとめてみます。
考え方を学ぶということ
道具として知識を仕入れる
大抵の場合、ぼくたちが考え方のコツや思考法について本や動画などのコンテンツから学ぶ際には、「その知識を道具として使いたい」という目的があるように思います。
つまり何か解決したい課題・悩みがまずあって、それを対処するための手段として、有効な方法を仕入れたいということ。
「楽に生きるための考え方」について言えば、
- 自分の能力や将来に対する不安
- 良くない人間関係からくるストレス
- ネガティブ思考のクセによる悩み
といったことが課題と言えそうです。
そうした苦しみから逃れるために、即効性のある薬として、何か使える考え方・思考法がないか探してみるわけですね。
実際、ちょっとした考え方のコツがふっと気持ちを楽にしてくれることはよくあります。
知識と実感は必ずしも一致しない
ところが、ことさら「楽に生きるための考え方」においては、仕入れた知識をそのまま活用しにくいことも多いように感じます。
というのも、どのくらい楽観的に物事を捉えるかというのは、テクニックというよりむしろその人の根源的な価値観そのものに近いと思うのです。
これが例えばビジネス系のメソッドとしての思考法なら、もっと気軽に取り入れやすいと思うんですけどね。
「事業計画を立てたら自ら批判的な目線で疑問点を探してみましょう」、みたいな。
しかし、心を楽にしようと思うとなかなか難しい。
- 人は人、自分は自分だと割り切りましょう
- 自分を責めるのではなく褒める習慣をつけましょう
といったアイデアを知識として得たところで、「じゃあ今日からそうしよ~」で解決できるものでもありません。
もともと持ってる価値観ってなかなか変えられないですからね。
「まあ言ってることは理解できるんだけど…。」
といった、どこか霧の晴れない感覚が残ることもしばしば。
思考法の知識を得るということと、心から腑に落ちてそれを実践できることとの間には、ある程度の距離があるよね、というお話です。
単に知ることと、自ら実感することはまた違うんですね。
価値観は常に変わる
結局そのときの体調次第
そして今回の記事の要点になるのがこちら。
知識として得た考え方・思考法を心から実践できるかどうかというのは、純粋にその人の今の体調によるんだ、ということです。
ここでいう「体調」は、ものすごく広い意味で使っています。
健康状態、精神状態、生活水準、身の回りの出来事などですね。
ある時点のその人を取り巻くあらゆる状況が流動的に絡み合って、ぼんやりとその人の今の人生観・価値観を形成している。
そうして常に変化する価値観が、たまたま何かの思考法とパチッとかみ合った時だけ、その考え方を有効に活用できると思うんですよね。
意志の力だけで実践するのには限界があって、最終的に楽になれる考え方に乗っかれるかはその時々の運次第なわけです。
一度実践できたらOKではない
個人的な体験談になりますが、ぼくは数年前にベストセラー『嫌われない勇気』を読んで、その内容にものすごく共感したのを覚えています。
自分の中でぼんやりとしていた感覚がくっきりと言語化されて、日々の人間関係の悩みが一気にクリアに感じられました。
当時のぼくはこの本から明確に、楽に生きるための考え方を学び、心から腑に落ちて実践できたわけです。
そしてこのときは、
「これで人生観が変わった」
「もう今後は人間関係で悩まなくても良くなる」
といった感動すら抱いていました。
ところがこの「楽になった」感覚も、やはりたまたまその時のメンタリティに合っていたというだけであって、思考法を自由自在なスキルとして身につけたわけではないのです。
その後ぼくが仕事のストレスで苦しくて仕方がないとき、改めてこの本を読み返すこともしてみたのですが、今度はほとんど内容が響いてこないし、楽にもならないんですよね。
自分の体調が変わると、教えを実践できるかどうかも変わってくるんだということを、このとき体感しました。
何が言いたいかというと、楽になるための考え方・思考法なんてのは「スキルとして身につける」ようなものではない、ということです。
たとえば自転車に乗れることは、一度身につければいつでも引き出せるようになるスキルですね。
一方考え方に関しては、どこまでも流動的な体調・価値観といったものに強く結びついているので、自分の意志では完全にコントロールできない。
「楽な生き方をついに習得したぞ!」と思っても、それはおそらく勘違いで、一時的なものにすぎないのかもしれません。
思考法の知識は補助線になる
じゃあ、色々な思考法を学ぶことはまったく無駄なのかというと、そうでもないのかなと思います。
というのは、理想的な考え方のイメージを知識として持ってさえいれば、たまたま自分の体調がそこに近い場合に、手っ取り早くポジティブモードに移行するための助けになるからです。
また、どうしても楽な考え方を実践できない苦しい状態であったとしても、「以前はできていたこの思考法が今はできない」といった自認をすることで、現在の心の状態をある程度客観的に把握することにもつながります。
ぼく自身も病んでいた当時、
前はあんなに響いた『嫌われる勇気』の内容が実践できなくなっている…!
これは相当心が弱っているな…。
といった具合に、過去に仕入れた知識をバロメータのようにして自身の状況を顧みることができました。
そういった意味で、すぐに役に立つかどうかは一旦置いておいて、とりあえず色んな「楽になるための考え方」を自分の中にストックしておくというのも良いのかな、と思うのです。
まとめ
今回のお話をまとめると、こんな感じでした。
- 楽になるための考え方・思考法は、各個人の価値観と深く関わっている
- 価値観は体調によって変化し続けるので、考え方を実践できるかはその時の運次第
- すぐには腑に落ちない考え方でも、とりあえず仕入れておけばいつか役に立つかも
「落ち着いた精神状態をいつまでも維持したい」というのが理想かもしれませんが、なかなかそうもいきません。
私たちを構成する細胞は常に入れ替わり続け、また様々な経験を経て脳のネットワークを更新し続けています。
また仮に自分が変わらなかったとしても、それを取り巻く社会のほうが常に変動しています。
そんな変化の中では、価値観・心の状態は本質的に安定しないものとして覚悟しておく必要がありそうですよね。
だからこそ、自分の中に豊富な考え方の選択肢をもっておくことは、不安定な心の動きと少しでもうまく付き合っていくための指針になるかもしれません。