勉強・運動・自己研鑽など、やるべきことが色々あるにも関わらず、なんとなく気分が乗らずにだらだらと過ごしてしまう一日というのは、誰にでもあると思います。
ぼくもこの一年だけで幾多のだらけた日を重ねてきたわけですが、そうするうちになんだか最近、「だらけること」に対する意識・考え方が、ぼくの中で少し変わってきているのを感じるのです。
しばらく前までは、何も生産的なことをせずだらけてしまう時間に対して、どこか情けなさや罪悪感のようなものを抱いていました。
「また頑張れなかった」「有意義な一日にできなかった」と、そんな具合ですね。
しかし最近は、だらけることにも相応の価値を見出しはじめたというか、前よりもポジティブに捉えることが多くなってきたように思います。
今回はこのあたりの「だらけ」をめぐる捉え方の違いについて、少し感覚を整理してみます。
2つのだらけ観
まずは主題から。
「だらけることをどう捉えるか」に関して、次のA, Bのように違った捉え方ができそうだな、というのが今回のお話です。
A. 戦略的だらけ観
⇛ だらけることは頑張るための戦略である
B. 選択的だらけ観
⇛ だらけるのも頑張るのも趣味の問題である
要は、生産的な活動のサブとしてだらけるのか、もっと主体的にだらけるのか、といった考え方の違い。
生産的な活動(=頑張ること)があってのだらけ観なので、だらけ観は同時に頑張り観とも深く結びついているとも言えるかもしれません。
それぞれのだらけ観について、詳しく見ていきます。
A. 戦略的だらけ観

まずは戦略的だらけ観ですが、
- 目標に向かって頑張る生産的な毎日(頑張り)が基本
- それを支えるための手段として休養(だらけ)も設けるべし
といった価値観に基づいた捉え方です。

本当はずっと頑張っていたいけど、過度に頑張り続けていると健康や精神衛生に良くないし効率も落ちるから、たまにだらけてバランスを取らなきゃな!
と、こんな感じの方向性ですね。
だらけはあくまでメインの生活を支えるための一時的な手段なので、必要最小限に抑えておくのが望ましい。
そこから派生して、「あまり何日もだらだらしちゃうのは良くないことだ」という判断も自然と起こってきます。
だらけている期間は目標に近づくことのない停滞の時間ということになりますからね。
半年くらい前のぼくはちょうど開業したてだったこともあり、主にこの戦略的だらけ観のほうをインストールして日々を送っていたように思います。
B. 選択的だらけ観

そして最近のぼくが徐々に寄っているのが、こちらの選択的だらけ観のほうです。
- 頑張ることとだらけることの間に優劣はない
- その日の気分に合ったほうを選択すれば良い
このように「生産的な活動がメインで休息はサブ」という主従関係を撤廃した、よりルーズな価値観です。

結局、自分の好きなことして過ごすのが一番いいじゃん?
頑張ることもだらけることも、単に過ごし方の趣味の違いとしてフラットに捉えているわけですね。
選択的だらけ観に基づけば、だらだらとした日々を過ごしても後悔や罪悪感には直結しないことになります。
だらけたくてだらけたのだから、その日は良い一日。
頑張った一日も、頑張る過程を楽しめたのだから、やっぱりその日は良い一日。
目標の達成状況のようなものは、あまり主題には上がってきません。
どちらのだらけ観に従うか
ここからは、じゃあA, Bどちらのだらけ観が良いのだろう、ということについてです。
個人的には、ここ数ヶ月で考え方がAからBに移行してくる中で日々の満足度が高まっていったので、
「選択的だらけ観っていいなぁ…」
というモードに入っているのですが、ぶっちゃけどちらも一長一短あるような気がしています。
それぞれの価値観のメリットに注目して比べてみましょう。
A. 戦略的だらけ観の良いところ
だらけることは頑張るための戦略として最小限にとどめ、あくまで生産的活動のほうにウエイトを置き続ければ、その分目標の達成やスキルアップが高速で実現していくことができます。
こうした成功体験は一つ一つが自己肯定感につながるので、人生において様々な面で良い影響をもたらしてくれそうです。
例えば収入UPにより、生活のクオリティが上がってできることが増える。
すると目標の幅も広がって、さらに頑張ることのやりがい・充実感も大きくなっていく。
そうして頑張る毎日を送っていると、たまにあるリフレッシュデーもより一層開放感が大きくて、そこでまた頑張る意欲が湧いてくる。
サウナと水風呂を繰り返すような、気持ちのいい充実感が味わえそうですよね。
こんな感じでアクティブな幸福のスパイラルがもたらされるのは、頑張りの継続があってこそだと思います。
B. 選択的だらけ観の良いところ
一方、だらけるのか頑張るのかをその日の気分次第でフラットに考えるスタンスでは、自分の人生観に沿った生活がおくりやすい利点があります。
頑張りや努力はよく崇高なものとして語られますが、結局のところ自身の幸福の追求のための選択肢でしかないわけで、逆に苦しみを生んでしまうようでは本末転倒ですよね。
あまり頑張ることに傾倒しすぎると、「どうなれば自分は幸せか」という本質的な目的を見失って、ただただ疲弊してしまう危険性もあります。
本心から望む方向へ進んでいるのなら、努力の過程自体もまた楽しいものであるはずで、その限りにおいて頑張ろうというのがこちらの価値観です。
今日一日を頑張ることで快を得られるなら頑張れば良いし、同様にだらけて快を得られるならそれでも良い。
とにかく心地よい方向へ。
このようなシンプルな指針でいることで、精神的な負担が少なくてすむのも魅力的だと思います。
2つのだらけ観の比較
というわけで、どちらの価値観にもそれぞれ質の異なる良いところがあるということです。
両者の特徴を挙げていくと、次のように整理できそうです。
A. 戦略的だらけ観 | B. 選択的だらけ観 | |
---|---|---|
行動基準 | 長期の目標達成 | 短期の心地よさ |
フォーカス | 未来 | 現在 |
優先順位 | 頑張る>だらける | 頑張る≒だらける |
だらけ日数 | 少ない | 多い |
成長速度 | 速い | 遅い |
幸福観 | ドーパミン的幸福 | セロトニン的幸福 |
メリット | 成功・自己実現 充実感 | 人生観の反映 精神的安定 |
危険性 | 疲弊・迷走 | 停滞・無力感 |
まぁ比べてみたところで、目指すところが違うので、どっちが良くてどっちがダメなどと一概には言えないですよね。
あくまで自分にしっくりくるほうをインストールするのがいいんじゃないでしょうか。
いずれにせよ、こうした感覚的なところをしっかり言語化・整理して、自分の内面についての解像度を上げておく営みってすごく大切なことだと思うのです。

切れ味に欠けるまとめで、なんかすみません。
まとめ
以上、今回は「だらけることをどう捉えるか」に関して2通りの価値観を考えてみました。
A. 戦略的だらけ観
⇛ だらけることは頑張るための戦略である
B. 選択的だらけ観
⇛ だらけるのも頑張るのも趣味の問題である
ぼくの場合は性格的にもBの選択的だらけ観がとてもしっくりくるので、特に最近はわりとこういうルーズな行動基準に思考が寄っていっています。
実際のところ今は仕事や勉強も楽しくて色々やっているので、別にだらだらしまくっているわけではないんですけどね。
とはいえ過去には頑張りすぎてメンタルを崩してしまったことのあるぼくなので、「今日が楽しければそれでいーじゃん」的なゆるい目線は、これからも意識していきたいと思っています。
(↓過去に苦しんだときのあれこれ)
繰り返しになりますが、だらけ観を巡るどちらの捉え方もそれぞれ一長一短であり、どっちも違ってどっちもいいのです。
結局のところ重要なのは、
- 今のだらけ観がその人の目的や適正にマッチしていること
- いつでも他のだらけ観を採用していいんだと意識していること
この2点に尽きると思います。
やる気が溢れ出て止まらないときは戦略的に、精神的に疲れてボロボロのときな選択的にだらけてみるとかね。
うまい具合に自分の価値観に幅とグラデーションを持たせることで、この資本主義社会の競争の荒波をプカプカと乗り越えて行きましょう。