面白い本を読み終わったので、思ったことを書き残してみたいと思います。
グレッグ・イーガン著『しあわせの理由』というSF短編集です。
著者はオーストラリア在住の現役作家で、理屈っぽくて難解なハードSFの大家として知られています。
この短編集も例に漏れず、量子力学やら生理学やらの知見に基づく小難しい描写がそこかしこに遠慮なく繰り広げられています。
そしてそんな緻密な理論に裏打ちされた構想やアイデアは、どれも思わずため息がもれるようなものばかり。
「何言ってるかよく分らんけど、でもめっちゃ面白い!」
という不思議な感覚に浸ることができる一冊でした。
今回特に取り上げたいのは、その表題作となっている作品である「しあわせの理由」です。
(ざっくりですが、ネタバレを含む記事ということでご注意ください。)
『しあわせの理由』の概要
物語のあらすじ
物語の主人公である12歳の「ぼく」は、悪性の脳腫瘍を取り除く新治療をうけた際、治療の副作用で脳内のロイエンケファリン(幸福感をもたらす神経伝達物質)を受容するニューロンを全て死滅させてしまいました。
これにより「ぼく」はあらゆることから一切の楽しみを感じられない状態となり、抗うつ剤で何とか自分を保ちながら、その後18年にわたって廃人のような生活を送ることとなります。
30歳になった「ぼく」は、状況を打開するような新しい医療技術に出会います。
それは、過去4,000人分の他人のニューロンネットワークの情報を全て合成し、特殊なポリマーとして「ぼく」の脳内に注入することで、疑似的に正常な脳機能を再現するというもの。
手術を受けた結果、4,000人分の趣味嗜好が全て「ぼく」の中に受け継がれたため、今度は周りのあらゆる人物や芸術作品を最高に美しいものと感じられるようになりました。
しかしこれでは、自分に人間らしさや個性というものがまったくありません。
とてもオリジナルの人生を歩んでいるとは思えない。
これならいっそ手術前に戻りたいとまで考えます。
しかしついに、さらなる最新技術によって、「ぼく」は脳内の義神経の接続を自分の意志でいつでも自由に操作できるようになりました。
これで、自分が何をどれくらい好きでいるのかも、嫌いでいるのかも、どのタイミングでしあわせを感じるのかも、すべて思いのままコントロールできます。
やっと自分らしく生きられる能力を手に入れたのです。
「ぼく」はこの能力と共に、18年ぶりに通常の社会生活へと戻っていきます。
そしてその中で思い知ることとなります。
自分がこうして感じているしあわせは、自分にとって何の意味もないものなのだと…。
主人公の苦悩
物語後半では、自分の幸福回路をコントロールできるようになった主人公が、その後社会の中で苦悩する様子も生々しく描かれます。
脳内を操作して幸福を感じることが、とても空虚なものに感じられるんですね。
しあわせのない人生は耐えがたいが、ぼくにとってしあわせそのものは生きる目標とするに値しない。
グレッグ・イーガン『しあわせの理由』ハヤカワ文庫SF
ぼくはなにがしあわせを感じさせるかを好きに選択できるし、その結果しあわせを感じている。
だが、自力で新しい自分を生みだした場合、その結果しあわせになろうが、ほかのどんな気分になろうが、ぼくの選択とその結果のすべては、つねにまちがっている可能性があるのだ。
特に印象に残っているのは、主人公が夜のパブに入ろうとする場面。
パブの入り口付近で、12歳くらいの少年がビニール袋に顔を突っ込んでスーハースーハーしては、とろんとした目をぎらつかせているのです。
かと思えば、後ろからいきなり満面の笑みの男が話しかけてきて、宗教の勧誘をしてきます。
そこで主人公は、要約するとこんな感じのことを思います。
「あの少年は、今の幸福感が(※自主規制)によるものだと分かっている。この宗教の人は、たまたま自分がロイエンケファリンを分泌している自覚がないから、今の幸福感が神のおかげなんだと理由づけている。」
「ところで、今パブで踊っている人たちは?幸福感の理由を自覚しているのか?音楽、気の合う仲間、アルコール…。どこからが空虚な幸せと言えるんだ?」
主人公が脳内を操作して得る幸せと、ぼくたちが大好きな趣味に没頭して得る幸せと、何が違うんでしょうね。
しあわせの理由に、空虚とか高尚とか、そんなものあるんでしょうか。
結局のところ、あらゆる幸福感ってのは神経伝達物質によるニューロンの反応に帰結すると言ってしまえるわけです。
しあわせって何なんだろう論
クラゲにすぎないぼくたち
『しあわせの理由』を読み終えたぼくは、ある記憶を強烈に思い出していました。
3~4年くらい前にタレントのモーリー・ロバートソンさんの講演会に行った際に聴いた、彼のエピソードトークです。
いわく、モーリー氏がハーバード大学で学生をしていた頃の友人に、笑気ガスの私的な愛用者がいたそうです。
笑気ガスとは、リラックス作用のある吸飲麻酔の一種ですね。
その友人がモーリー氏に熱弁することには、
「人間っていうのは突きつめれば、脳と、そこから神経がたくさん出てるだけのクラゲみたいなものでしかないんだ!」
「どんな幸福も最終的にはクラゲが受け取る電気信号にすぎないんだから、幸せになるならガスで直接クラゲを喜ばせるのが一番手っ取り早いだろ!」
モーリー氏は、どれだけ落ち込んでいても一撃でアゲアゲになっている人間を見て、
「ああ、人間にとっての幸福って、結局こういうことなんだなぁ」
としみじみ感じたのだとか。
ぼくはこの2時間ほどの講演の趣旨を今ではほとんど忘れてしまったのですが、この話だけはなぜかものすごく鮮明に覚えています。
だって衝撃的じゃないですか。
ぼくたちの肉体とか、身の回りで起こった出来事だとかは、すべて究極的には自分にとって何の意味もないと言えちゃうんだから。
仮にぼくが大きな事故に遭って二度と歩けなくなったとしても、そのときたまたまぼくの中のクラゲにいい感じの電流が流れたら、それだけでぼくは最高にハッピーなのです。
人生とは、クラゲと電流。
ほかは何でもいいのです。
事実そのものに幸も不幸もない
こんなことを考えていると、
「もう何もかも無意味だし、どうでもいいや…。」
といった悲観的なニヒリズムに陥ってしまうんじゃないか、という気もしてしまいます。
しかし、『しあわせの理由』を読んだぼくの心持ちは、不思議とスッキリしたものでした。
だって、幸せと同じように、不幸もまた電気信号にすぎないわけですよね。
「自分は不幸な状況の中にいる」
「不幸な出来事が起きてしまった」
という認識はあまり正確ではなくて。
実際は、「幸でも不幸でもない状況(事実)」と「不幸を感じている自分(クラゲ)」のそれぞれがあるわけです。
要するに、自分と環境ってダイレクトに連動しているわけじゃないんですね。
ぼくたちが幸せになるために一生懸命お金を稼いだり、自己実現を目指したりするのも、クラゲから見たらあくまで間接的な努力というか、ぶっちゃけどっちでもいいことなのかもしれません。
そのことを思うと、幸を追い不幸から逃れる人生のタスクからちょっと解放されて、肩の荷が下りたような感覚にもなります。
悩みのタネだったことの重大さが失われていく感じ。
ぼくは、悟りの境地に数センチほど近づけたのかもしれません。
まあそれはそれとして。
『しわあせの理由』の主人公は、こんな訳の分らん能力に翻弄されながらも、深い自問自答の末に、ひとつの彼なりの答えを見出します。
鬱屈とした雰囲気のただようストーリーですが、結びには一筋の希望のようなものも感じられました。
ゆっくりとひとり哲学したい夜にオススメの一冊です。
ぼくも少し考え疲れたので、今晩は久々に酒でも飲んで、少しクラゲを喜ばせつつ寝てやろうと思います。