どうして本を読むのか?小説に逃避して現実から目を背けることを覚えてきた

みなさん小説って読みますか?
またそれは何のために読んでますか?

ぼくは本を読むにしても小説というジャンルをあまり選ばない傾向にあるんですが、最近は少しずつ読む機会が増えてきました。

「小説を読むメリット」を軽くググってみると、「読解力が身につく」「共感力が高まる」「想像力が豊かになる」みたいな、まあそうだろうなという項目が並んでいます。

でも実際、そこまで具体的に能力向上!みたいなことを目的として小説を読んでる人ってあまりいないような気がするんですよね。

ぼくはラジオとかYoutubeで読書をテーマにした番組やコンテンツを見ることがちょいちょいあるのですが、そこで「どうして〇〇さんは小説を読むのですか?」みたいな質問がされている場面にたまに出くわします。

その回答としてこれまで自分が耳にしてきた、読書好きの方々の「小説を読む理由」というのは、なんとなく次の2パターンが多かったような気がするのです。

  • 単純にエンタメとして面白いから
  • 現実から小説の世界に逃避できるから

個人的には昔はずっと①の動機がメインだったのですが、最近になってようやく、②の感覚が少しわかるようになってきました。
そのあたりのことについて考えたことを書いてみます。

本を読むことと悩むこと

まず「本」一般について。
本には、駆け込み寺としての機能があるように思います。

つまり何か困ったことや辛いことがあった時に、
「とりあえずこの苦しみを和らげる何かをくれ!」
みたいな感じで、本能的に手を伸ばす命綱的なものです。

外交的な人であれば、それはたぶん親しい友人とご飯に行くとか、新しい人と知り合うとかがメインになるのかもしれません。
悩みを人とのつながりの中で薄めて忘れてしまおうぜ、といった考え方ですね。

しかし内向的な人は、なかなかそういう作戦はとらないんじゃないでしょうか。
辛ければ辛いほど他人と会いたくなくなる人もたくさんいるはずで、ぼくもその一人です。

まずはひとまず閉じこもって、自分の中でこの悩みを消化してしまってからじゃないと、余裕がないうちはとても人と話す気力も起きません。

だって苦しみは自分の中にあるんだから。
自分の悩みをどうにかできるのは、結局自分自身だけなんだから。
世界は私の思考によって創造され、ただ思考の追及によって私は救済されるのである。

危険思想かな?

まあそのくらい、あれこれと一人で考える時間がほしい人もいるわけです。
そのせいで悩みが長引いている部分も否めませんが…。

そういうタイプの人々は、おそらく自分を守る意味で、何かと本を頼ることも多いと思うんですね。

読書によって、このどうしようもない悩みや苦しすぎる世界への不安をどうにか解釈するためのヒントを、手当たり次第にあさって収集している感じ。
自分の健康がかかっているわけなので、これは切実な課題です。

そこまで大げさなことを皆が常に意識しているわけではないでしょうが、本を読むという行為の大きな一側面としてやっぱりあるように感じるのです。

小説という非現実に逃げる

そのうえで、特に小説というジャンルのいいところは、現実から距離をとれるところにあると思います。
要するに現実逃避ができる点ですね。

架空のキャラクターやストーリーを追っているうちは、リアルで直面している色々な悩みや不安から一時的に目を背けることができます。

自分の人生を生きなくていい時間。
人生に疲れてきた人の、つかの間のリフレッシュタイム。

そうして小説に没頭する時間を経て再び現実世界に戻ってくると、少し自分の人生が客観視されて、なんだか抱えていた問題の重要度が軽くなったような感じがします。
あるいは、その問題について考える力が回復したような感じ。

フィクションという意味ではドラマや映画や漫画でもいいのですが、やっぱり小説の方が現実との距離は遠い気がしますよね。
文字情報だけであとは想像するしかないので、より抽象度が高く非現実的な体験になるのでしょう。

非現実にひたることで日常の喧騒から一時的に離れる。
なんかキャンプみたいですね。

…といったような小説の効能を、最近小説を読む際にぼんやり意識するようになりました。

そして寝る前などには、物語の続きが気になるというより、単に「逃避」を求めて小説を欲するようになってきました。
お酒と同じで、ある種の中毒性があるのかもしれません。

中高生くらいのときに小説にハマっていた頃は、もっと純粋にストーリーを楽しんでいたはずなんですけどね…。

小説好きのみなさんがしきりに言っていた「小説の世界に逃避できるから」という理由は、多分こういう感覚のことなんだろうな。
この歳になってようやく自分もそれを実感として少し得られました。

うーん、これは喜ばしいことなんでしょうか。

逃避先が増えるのはいいこと

小説を現実逃避の手段にするということは、それだけ現実を辛いものと捉えている証拠でもあります。

せっかく小説の味わい方を知ったところですが、そう考えるとちょっと複雑です。
ひょっとして自分は不幸の道を自ら歩んでいるんじゃないか。

しかしそれでも、小説に逃げられないよりは、やっぱり小説に逃げられるほうがいいと思うのです。

数年前、適応障害の真っ盛りだった当時もぼくは本を読んでいましたが、小説だけはどうしても読み進められなかったんですよね。

現実逃避をしてフィクションの世界に没頭しに行けるだけの余裕がありませんでした。
現実からちょっとでも目を離すと、その隙に後ろから現実に殺されるんじゃないか、みたいな恐怖があったのかもしれません。

だから気分転換とかリラックスなんてものは全部置いといて、とにかく今日や明日の現実世界を何とか戦えるように、武器としての知識や思考法を求めて本をあさることしかできなかったのです。

人間関係やメンタルヘルス系の実用書とか、幸福論や哲学みたいなジャンルの本ですね。
こういうのを毎日の通勤電車でちまちまと、うつろな目で読んでいました。

そのころに比べれば、小説を逃避先にできる今の精神状態はいくらか健全な気がします。
少なくとも現実から目を背けられるだけの余裕があるということですからね。

きっと人生において逃避の選択肢は多ければ多いほどいいのです。

苦しまぎれの逃避先は、小説以外にもっと短絡的かつ即効性のあるものがたくさんあります。
カフェイン、アルコール、ニコチン、ギャンブル…。
どれも不安を和らげてくれて、別に悪いものではありません。

ただどれか一つにしか逃げる先がないというのは、やはりちょっと不健全なのでしょう。
依存が過度になると長期的にかえって苦しみを大きくしてしまうことが多々あります。

だから逃避先をあまり限定しないように意識する。
色んなものにちょっとずつ依存する。

ぼくは最近、小説を読むという現実逃避の方法を新しく覚えることに成功したわけです。
だからこれは喜ばしいことなのです。
そう思うことにしました。

まとめ

ということで今回は、小説による現実逃避を肯定していこうぜというお話でした。

ちなみに自分が最近読んでいる小説を思い返していて気づいたのですが、どれも人が死んだり絶望したりする、なんだかジメジメした物語ばかりなんですよね。

ぼくにはまだ、明るくて優しくて心が温まるような小説を読めるだけの余裕はないということかもしれません…。

いつかハートフルな児童文学を楽しめるようになるまで、引き続きゆっくりと心を養っていきたいと思います。

ほっこり系小説のイチオシがあればぜひ教えてください。